八代英太 プロフィール
【役職】 株式会社つなひろワールド 会長
【顕彰】 アメリカビクトリー賞(1985年)
国連事務総長賞(1990年)
旭日大綬章(2007年)他
【趣味】 音楽鑑賞/カラオケ/将棋
【座右の銘】 苦しみの中から喜びが生まれる(ベートーベン)
太陽は誰の上にも照らす
【著書】 負けてたまるか車椅子/わが人生福祉論/車いすから見た日本など
【ホームページ】
八代英太のおもいっきりブログ 誰もが自立できる、その日のために
脊髄を損傷し、車椅子生活が始まったのは40年以上前のことです。当時は今よりも障害者に対する無理解が深刻で、障害の部位や度合いに関わらず、選べる職を得る機会は大きく限られました。当事者のひとりとして、障害があろうとなかろうと、誰もがチャレンジできる社会を作りたい。そういった思いが原点で、参議院議員として18年間、障害者が社会で活躍できるよう法整備に尽力してきました。
現在は障害者雇用促進法が整備され、従業員50人以上の企業は障害者の雇用が義務化されています。少なくとも制度の上では、障害者でも、自分から仕事を選び、チャレンジする土壌はできてきたといえるでしょう。
だからこそ、障害者もチャレンジしなければなりません。介助される側でいることに安住していないで、自分の能力を発揮して、社会の担い手とならなければならないでしょう。私がスポーツを奨励している根底にも、その思いがあります。強い心を培うのに、スポーツほど適したものはありません。選手として努力を怠らず、勝利がもたらす喜びと、敗北がもたらすつらさを知る。真摯にスポーツに取り組む彼らなら、たとえ引退して企業社会というフィールドに移っても、あきらめずチャレンジし、活躍していけるはずです。
誰であれ、得意なことと苦手なことがあります。一人ひとりできることが違うという意味では健常者も障害者も変わりません。誰もが自分でやりたいことを見つけるチャンスをつかみ、それにチャレンジし、一人ひとりの行動で社会が少しずついい方に変わっていく。そんな社会の実現に、私は生涯をかけて取り組んでいきます。
会長 八代 英太
経歴
1937年 | 山梨県の農家の三男として生を受ける |
1945年 | 敗戦日本、小学校2年生の夏のこと |
1953年 | 高校を卒業後、民間放送の山梨放送に入社する |
1963年 | 25歳の春、大志を抱いて上京し、タレント活動を始める |
1966年 | 見合い結婚をし、二男一女をもうける、その頃はテレビの司会で脚光を浴びる |
1968年 | NTV系列お昼のワイドショウ司会:8年 |
1970年 | ラジオ・ドラマ・など声の出るもの全て・・・だが |
1973年 | 公演先の愛知県刈谷市でステージから転落、脊髄を損傷、以後、車椅子の生活となる |
1974年 | 本格的に障害者運動に入る |
1977年 | 福祉の充実を訴えて参議院選挙に挑戦し、当選する。 |
| 以来、3期18年参議院議員・衆議院議員として3期10年、計28年間国政で活躍 |
1980年 | 今後の障害者福祉の在り方として、ノーマライゼーションの理念を国会の代表質問で提言 |
1981年 | 国連障害者年を機に、福祉外交を推進し、障害者の世界組織DPI(インターナショナル)の結成に参加、アジア太平洋の議長を15年務め、アジア・太平洋各国を訪問し障害者の自立を提言 |
1999年 | 郵政大臣に就任し、IT社会の実現に努力 |
2005年 | 郵政民営化反対し、自民党を離党、無所属で立候補したが落選 |
| 以後、福祉のアドバイザーとしてアジアのみならず世界を行脚 |
2006年 | 帝京平成大学の教授・山野芸術短期大学客員教授に就任 |
2012年 | 株式会社つなひろワールド会長に就任 |